「理論と実践」に関する現場からの視点

私は学校という場に身を置きながら,言語習得理論を基本に学際的な視点から文献調査を行っています。そして生徒の力を伸ばす指導を構成・実践し,その効果についてまとめたり発表したりしてきました。

 

今時点で振り返ってみると,発表したことなんて実践のほんの一部です。かなり熟考した内容をいざ指導しても生徒の受けがイマイチだったものもあれば,準備してよかったと思える指導もありました。

 

効率という点では「非常に悪い」のですが,生徒の力に応じた展開を心掛けているものですから,手間がかかって然るべきだと思っています。また、持っている知識なりを生徒に応じてカスタマイズすることに力点を置くことで,生徒理解をしようとしますし,飛び越えさせたい壁を設定することで授業の展開,さらには教える楽しみが見えてきます。

 

先日のプロフェッショナル:山髙篤行先生が仰っていました。

 

「手術が始まる前に,もう手術は終わっている」

 

この言葉,非常にシビれました。

 

誰もが成し得ない外科症例だと一般的に考えられていても,文献を徹底的に調べ,術式を構築し,そのリスク一つひとつを減らしていく。そうすることで,「ありえない」が「ありえるかも」,「ありえるだろう」,「ありえる」に変容していく。

 

我々は,適度に準備を終わらせ,授業に臨むこともできるわけです。それでも許されると言えばそれまでですが,私としては生徒に申し訳ない。今できる自分が最も優れていると考える授業を展開し続けることで,エッジをカットしていきたいと考えます。

 

私がこのような立場をとっているのには理由があります。

第一に,兎にも角にも英語教育の進展であり,生徒の英語能力を育成するための方法を探ることです。

第二に,英語教育研究を通して学んだ論理性,メタ認知を「学校におけるあらゆる指導に生かす」ということです。

 

特にこの第二の視点については,私の教師としてのbeliefを形成していくものです。生徒理解にしても,他教科の授業を見る際でも,部活動の指導においても,英語教育「研究」を通して学んだことは間違いなく生かされます。そうすることが「研究を現場に還元する」ということだ,と考えています。

 

しかしながら,英語教育研究をしているからという理由で「英語教育の人」つまり「英語教育「だけ」に特化している人」と感じる評価を受けることがあります。

 

非常に残念なことであると思います。

 

「研究」に取り組むことで,正直なところ,今年は教師としての仕事のいくつかを犠牲にしてしまいました。それは本当に申し訳ないことでした。しかし,できていない部分を他の箇所でで埋め合わせをしようと試みながら今年度を送ってきました。

 

その辺りのバランス感覚が必要なのだと感じていますが,生徒には本当に救われたなぁと感謝しています。なのでやはり生徒に還元できる,生徒の力をしっかり伸ばしてあげられる指導をするために模索すること,そしてその発信をしていくことは無駄なことではない,と思います。生徒の人格形成へのアプローチを多角的に捉えていることがいまいち理解されない。

 

「教師としての仕事もできないで,何をやっているんだ」と。

 

研究成果を挙げるための準備,実践,物書きと教師としての仕事量。この辺りがteacher-researcherとしての苦しさなのでしょう。

 

 

いずれにしても,私は現場にいる者こそ理論的な考え,論理性,メタ認知が必要だと思っています。アカデミックは全く別次元の話,関係ない,とも考えているようにも思えます。ともすれば偏見の眼差しで見られかねない。教員は曖昧性を好むと言われます。自由裁量がきくからでしょうか。仮に論理性に誤りがあったとしても生徒には気付かれずに事なきを得る,ということです。

 

それで理論と実践を融合させることが可能になるのでしょうか。理論的分析を実践に近づけていくアプローチ宜しく,現場からの理論へのアプローチがなければ両立し得ないものだという思いが日に日に強くなってきました。

 

現場で起こるありとあらゆる課題が仮に二律背反的に捉えられているとしても,そこに根拠を頼りに紐解いていくことで新たな道が開かれると思っています。

 

現場からのアプローチがより拡充されることを願って止みません。