生徒指導観

中学生は不安定な時期。小学生であればまだまだ子ども。しかし中学生になれば大人への階段を一歩一歩加速しながら駆け上がり,自分は大人なのか,それともまだ子どもなのかと思い悩みながら,混沌とした時期を過ごしている,自分との葛藤の時期であると認識しています。

 

大人のように立ち振る舞いたい,しかし現実問題それができない。

難しいことはまだあまりしたくない,でももう子どもと言われたくない。

わかっている(ような)ことを言われると腹が立つ。

 

であるからこそ,中学生の心理を理解しながら,彼ら彼女らの人格形成を促していくことはやり甲斐のあることであると言えます。

 

中学生は

思いがけない行動をとります。

そんなこともわかってなかったのかと愕然とすることもあります。

正義が通用しないことも多々あります。

しかし,その逆もまた然りなんですけどね。

本当に面白い年代です。

 

間違いを犯した中学生に説諭するとき,道理に即した適切な対処を語ることにどんな意味があるのだろう,って少し思ったりしてきました。

 

「〜しなければならないよ。」

 

「〜するべきだったよね。」

 

で,しばらくするとまた同じ生徒に同じ話をしたりして。

 

つまるところ,説諭する効果を最大限に引き出すためには何が必要かを検討する必要があるのでは?と思っています。ここでいう「説諭」とは教師が一方的に指導したり,叱責したりということを指しているのではありませんで,適切な行動を促すために生徒と「語らう」ことを主に意味しています。

 

中学生に「説諭する」ためには必要な前提条件があるのではないか,ということです。教師が一方的に思いを語ることでは絶対に受け入れられないと思います。一時的,その場においては理解した,受け入れられたような感じにはなりますが。

 

先日,先輩教員に直にコーヒーを淹れていただきました。私は「の」の字を描きながら注ぐことは知っていたのですが,先輩曰く「それまでにすることがある」と言うのです。

まず,豆を一定程度時間蒸らすこと。

そして,少しずつお湯を注いでいくこと。

一気に注いでしまうと苦味が出ることを実体験しました。

豆の味を引き出すにはそれなりのやり方があるものです。

 

コーヒードリップに則りながら生徒指導を鑑みた時,それなりに見えてくるものがあるのではないだろうか,と思うのです。

 

まず,「客観的なふり返り」をさせること。

 

そして,少しずつ「生徒自身に」思考させること。

 

目標に行き着かせるために教師として必要な説諭をすること。

 

 

そんな手順でここの所取り組んでいます。

生徒自身に思考させることで思いがけず反発されることすらあります。理解してもらえないことも多いにあります。でもそこを耐えつつ,冷静に話を進めていくと納得してもらえることが多いようです。

 

一般論を話すのではなく,その個人に対する深い理解とその個人の思考に沿って気持ちを理解すること,思考を展開させると同時に適切に代弁しながら思考を進展させることを大切にしながら生徒と語らっています。

 

中学校教員の仕事って生徒育成に時間がかかる。けど,生徒との関われば関わるほど彼ら(の人生)にとってプラスになると信じています。すぐには気がつかなくても,いつかきっとわかってくれる。だから中学校教師は面白いんですね。